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黄泉の国 - 死と再生のスピリチュアル

さて、今回はイザナギ・イザナミから始まり、大国主の物語にも登場する「黄泉の国」と死者の話。

黄泉の国(よみのくに)は、『古事記』と『日本書紀』において、死後の世界として描かれています。
イザナミの死とイザナギの黄泉の国への旅は、日本神話における重要なエピソード。
火の神カグツチを産んだ際にイザナミは命を落とし、イザナミの死を悲しんだイザナギは、愛する妻を取り戻すために黄泉の国へと旅立ちます。

黄泉の国は暗く、死者の世界とされており、イザナギはその入り口でイザナミに再会しました。
イザナギはイザナミに帰還を求めますが、イザナミは既に黄泉の食べ物を口にしてしまったため、帰ることができないと告げたのですが。
結局、イザナミはイザナギの懇願に応じ、一緒に地上の世界へ帰ることになり。


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この部分のエピソードだけでも重要なところは、たくさんあるのですが。
イザナギ、イザナミ以外の話は割愛。

まず重要なことは、そもそも黄泉の国は「死後の世界」と明確に表現されていること。

死人のイザナミが死後の世界いる事に矛盾はありませんが、イザナギが死者の世界でイザナミに会うためには自分も「死んで」いなければならない事が普通です。

だって、「会いに来た」のではなく「会いに行った」のですから、読み解けば二人共「死者」であることを明言している。

以前の記事で話したようにイザナギ、イザナミに関しては国産み神話以外は結構、雑な話が多いのですが端的に言えば、彼らメインの話は「ここで終わりだよ」って事です。(素戔嗚の物語のくだりで少しだけ出てきますが素戔嗚のわがままを際出せるためにって感じです)


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イザナミは、黄泉の国の決まりとして、イザナギに地上に戻るまで自分を見ないようにと忠告。
しかし、待ちきれなくなったイザナギは、髪飾りの櫛の歯を折り、それに火を灯してイザナミの姿を見てしまいます。

イザナミの体は既に腐敗しており、恐ろしい姿に変わり果てているのを見たイザナギは、恐怖のあまり逃げ出します。

イザナミは怒り、黄泉の国の醜女(しこめ)や雷神たちにイザナギを追いかけさせるのです。
イザナギは必死に逃げ、地上と黄泉の国の境目「黄泉比良坂(よもつひらさか)」まで辿り着きます。

イザナギは黄泉比良坂の出入り口を大きな岩で塞ぎ、イザナミとの決別を告げました。

これにより、黄泉の国と地上(現世)が分かたれたのです。

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この時代から平安の時代まで続く「見る」ということの意味が描かれているのが象徴的です。
「見る」とは、同列同格の者同士にしか出来ない事でした。
実際は、見えていても「ないもの」として扱うことをしていたようですが。
だから平安の世では貴族は「人でなし」の平民は、いないものとして扱い「蛙」や「蚯蚓(みみず)」と呼んだりしていましたし、ドラマで見るように全面を覆われカゴ籠を牛舎に乗せて、籠の中に身を隠し外出をしていました。
だから昔の話では、蛙を踏み潰したとか、切ったとかの話が多々見られますが、あれは人が殺されている描写なのですよ。

なので、ここでイザナギがイザナミを「見た(見えた)」とは同じ死者であることを示しています。


そして出雲に目を向ければ大国主の物語で素戔嗚尊が黄泉の国の支配者として「古事記にだけ」描かれているのは「死者」である事の再確認と、侵略をした出雲の人達に向けての「ご機嫌取り」である事は明白です。
死者である事の再確認は、ある種の呪いであると同時に「新たな人間が素戔嗚を名乗ることがないように」繰り返し素戔嗚は死んでいると広めているのです。
スピリチュアルやオカルトに偏ると、どうしても説明が怨霊(御霊)信仰にだけ行き着くのですが実際は、そんな新たな反乱の旗頭に「素戔嗚を名乗る人間」が担ぎ上げられないように牽制をしているという凄く生の人間っぽい話にも行き着くのです。
けれど出雲の民たちには、素戔嗚は死してなお偉大な王である。偉大な神だと言ってご機嫌を取っている。

これが国内向けの歴史書である古事記にだけ、素戔嗚の立場が黄泉の国の支配者とされている理由です。
そして、その物語の中で素戔嗚と会って話をしている大国主にも向けられた呪いであることも、また明白なのです



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